これまでにない住民主体の街づくりの仕組みを構想
東急が策定した長期経営構想では、2050年目線で描く未来のなかで、人生100年時代の安心安全を提供する「ウェルビーイング事業」と、人・自然・社会の調和を目指す「ソーシャル・ハーモニー事業」を、これからの街づくりの2軸に据えています。そうした未来への挑戦に対する具体的なビジョンを示す提言論文の社内公募があり、20年にわたしの書いた「SAP構想」が選出されました。東急はこれまで鉄道を中心とした交通インフラや不動産、生活サービス、ホテルリゾートなどで便利で効率的な住まい環境を提供していきましたが、「Efficiency(物質的効率)」はすでに当たり前になりつつあります。そこで、新しい時代の豊かさとは何なのかを問い直したときに頭に浮かんだのが、マズローの法則の最上位欲求にある自己実現を手に入れられる社会でした。「SAP構想」というのはSelf-Actualization Platform、つまり自己実現を可能にする社会システムをどうやってつくっていくか、その実証の方法を検討したものです。多様な豊かさを自分の意思と行動で実現する「Sufficiency(精神的充足)」こそが、次世代の社会課題になると考え、住民主体の街づくりの仕組みを構想しました。
外部パートナー選定の際に受けた逆提案
論文の選出後、社内の承認を得てプロジェクト化しました。立ち上げ時はひとりでしたが、わたしの所属する「フューチャー・デザイン・ラボ」という部署では、業務時間外なら社内副業的にここで行うプロジェクトには参加できる制度があり、途中からは2名で内容を検討してきました。難しかったのは、ビジョンを提示することで社内の理解を深め、それに基づいて既存事業が少しずつ変革していくような構想に落とし込む必要があったこと。わたしが入社3年目でもうひとりも若手だったため、経験不足もあって、社内では仮説を提示しては「言いたいことはわかるけど、よくわからない」といった反応が1年ほど続きました。そこで、第三者の力を借りたいと思い、数社にビジョンを明確化したいと相談したところ、「ビジョンだけではなく、事業構想にしてしっかりと収益モデルを定義したうえで、かたちにしていく取り組みにしましょう」と逆に提案してくれたのはBIOTOPEが唯一でした。新規事業や実証実験の結果で納得させたほうがいい、という考え方が的確だったのはもちろんですが、ビジョンづくりから事業構想まで一挙にできる会社だと直感したので、正式に依頼することにしました。
既存事業への危機意識から集まった若手メンバー
自己実現は自分で手に入れるものなので、東急がサービス提供者として存在するのではなく、支援する役割にパラダイムシフトしていくというのが「SAP構想」の基本的な考えです。この世界観を社内に伝播していくうえで、若手の意図や言葉をきちんと反映したものにしたかったので、新メンバーを募集するときも東急のビジネスモデルに危機意識をもっている同期や後輩を中心に声をかけて、BIOTOPEとの取り組みが始まる前には4名になりました。ただ、若手主体がゆえに社内にどう構想をプレゼンしてかたちにしていくかの道筋がなく、かつ自己実現というところには共感はするけれども、それになぜ惹きつけられるのか言語化できていませんでした。メンバーのやりたい思いは強い半面、自分たちよりだいぶ年次の上の人たちに、自己実現がどういうことで、それでどう稼ぐのかを納得してもらうには、全社的な経営戦略との紐付けや事業部を超えた既存事業へのシナジーなどのロジックを積まないといけなかったうえ、わたし自身もビジョナリーなことは言えても、それをサービスやビジネスに落ち仕込むのが上手く考えられなかったのが課題でした。
チームに一体感が生まれたワークショップ
BIOTOPEとの取り組みは2021年9月から11月まで、ワークショップ形式で週に1回3時間以上実施。ユーザー理解からビジョン創出、コンセプトメイキングを何往復もして、ユーザー検証と事業性検証を行いながら事業計画の質を高めていきました。業務時間外で参加しているメンバーが多く、特にあとから加入した2名はどうしてもフォロワーに回ってしまうことが多かったのですが、みんな一緒にしっかりと考える時間をもつことで、自分ごと化するいい機会になったと思います。また、アイデアを出し合う「アイディエーション」は、過去に体験したワークショップではアイデアを出してそれで終わりというケースが多く、それがなかなか次のアクションに結びつかないというジレンマがありました。しかしBIOTOPE のセッションでは、こちら側が出したアイデアを基本的に否定せず、それらすべてに対してひとつずつ「ビジネスにするとこうなるんじゃないか」と、すぐに丁寧なフィードバックがもらえたのが印象的でした。その後、メンバー全員で「これはどうだろう」「あれはどうだろう」と洗い出しながら検証していく過程で、みんなの士気が高まり、チームに一体感が生まれたと思います。
ビジョンを明確化し、新領域に参入する意義を検討
最初の約1カ月はビジョンづくりを徹底。BIOTOPEが問答形式でメンバーの内発的な思いを引き出し、それらを事業領域に翻訳するための「トレンドリサーチ」や「アイディエーション」を行いました。社内の人間には当たり前だと思っていた東急のイメージも、外部の人間から質問されると、あらためてそれがなぜなのか考えます。そうすることで、“東急は過去にこういう歴史があり、現在がこうだから未来はこうあるべきだ”といった長期的な視点に立って、東急が「SAP構想」で定義する新しい事業領域に参入する必然性を整理できたと思います。また、国内外の先進事例のリサーチでは、わたしたちは集めた資料を見て学んだ気になっていましたが、その背景にあるビジネススキームの解説があったうえで、それを東急に置き換えるとどうなるのかまで考える、BIOTOPEの知識量とロジックを読み解くスキルには非常に感心しました。既存モデルにとらわれることなく、沿線住人や利用者すべてをステークホルダーと考え、その人たちの有機的な関係性を会社のアセットにして新しい経済圏をつくるという、「SAP構想」のビジョンが明瞭になったフェーズでした。
社会エコシステム図でそれぞれの提供価値を可視化
自己実現というのは、やりたいことがあるのにできていない状態です。つまり、自己実現を阻害している要因を洗い出して、それを解決していくことができれば、新しいビジネスになり得る可能性があります。そこで、毎週4枚の模造紙がいっぱいに埋まるほど、人の感情の流れ、お金の流れ、地域の住民人材の流れ、東急のリソースの流れと、大きく4つの流れを定義して社会エコシステムを描いていきましたが、最初はかなりめちゃくちゃな図で、自分たちだけでやっていたら、きっとよくわからないまま終わっていたと思います。そんななかBIOTOPEのサポートで、なにが重要で、なにが収益になるのか、ひとつずつ洗い出して、削ぎ落としながらシステムマップがどんどんきれいになっていったのには驚きました。こうした図を繰り返し描き直しながら、「SAP構想」が目指す社会システムのなかで、どんなパラダイムシフトが起こるのかを考え、挑戦する人の金銭的・時間的・心理的障壁を10分の1にすることができれば、個人の思いを起点にした生業を起こせるような街づくりや、分散型の地域経済をつくることができるかもしれないという仮説に至りました。
東急は支援側にまわるビジネスモデルに移行
東急の既存事業、中心に東急がいてその周りにデジタル環境や都市開発環境などがあるビジネスモデルですが、社会エコシステムを描いたことでこれからの東急の役割が明確になり、「SAP構想」の方向性が定まりました。東急が事業主体者になってしまうと、どうしても持続性をもたせるために効率や収益の問題が出てしまいます。そのため中心に東急があるのではなく、ユーザーである住民と住民の間の仲介を支援するコミュニティ型ビジネスに移行し、外部企業も支援に参加できるしくみを構想しました。今後、少子化や地方移住による人口減少が見込まれるなか、東急沿線の住民がいつまでもそこで暮らすとは限りません。従来の開発手法が通用しないなか、これからは地域住民が自分たちで新しい文化や職業をつくり出せたり、お金の代わりにその人にしかできない価値を渡し合えたりするような社会が大きな魅力になるのではないでしょうか。こうした住民主体の開発ができれば、東急沿線に住むことが幸せにつながり、地域ごとにまったく違う特色が出てきます。それが住民と地域との強い絆になり、愛着のある街に育っていく理由のひとつになると考えました。
サービス設計でユーザーが使うシーンを具体化
次に、ビジネスモデルだけでは役員にプレゼンしたときに、新規事業はなかなか納得されにくいので、もっと具体的なサービスデザインまで考えないと腹落ちしてもらえないというBIOTOPEからのアドバイスを受けてUX設計に取り組みました。ここでは、これまでの検証結果を踏まえて、スマホのアプリ画面を手描きしたり、4コマ漫画をつくったりして、ユーザーのペルソナやカスタマージャーニーを決めていきましたが、「SAP構想」では挑戦する人や応援する人、個人もいれば企業もいるといったふうに、さまざまなプレイヤーが混在しているためユーザーフローがかなり複雑です。そんななか、BIOTOPEのデザイナーが議論の現場で、具体的なシーンに落とし込んだ絵にしてくれたのはイメージを想起しやすくするという点でとても助かりました。社内に説明するときも「これはこういう人なんです」と言うと説得力が増したので、とても重要なアプトプットになりました。コミュニティ型ビジネスにしたことで、住民同士、住民と企業、住民と東急の関係性のすべて定義するのが大変でしたが、事業としてのクオリティはかなり高まったと思います。
小さくて深い経済圏の構想を物語化した資料を作成
最後はプレゼン用に、ビジョンからサービスデザインまでの一連の流れを、東急の歴史や社会的背景、既存事業の課題を鑑みたうえで、このプロジェクトとどうシナジーを生み出せるのかという収益性を交えて、30枚程度の資料にまとめました。今回のコンセプトで最も重要だったのは、これまで画一的な豊かさを提供してきた東急が、多様化する未来の豊かさにおいては支援する側に回り、住民が主体となってそれを行うというところ。担い手が入れ替わることで、街とそこに暮らす住民にロイヤリティというか、関心や熱量が集まっていくことに主眼を置いています。資料を作成後、社長や役員にプレゼンする機会を得ましたが、まずはどういう世界観なのか小さくてもいいから実証すべきという意見があり、現在は「SAP構想」と考え方の近い「nexus構想」というプロジェクトのなかで、“生活者起点の街をつくる”ことに取り組んでいます。神奈川県川崎市にある「ネクサス チャレンジパーク 早野」はその第一弾。地域と社会が共通意識をもてる“コモンズ”をいろんなところに設けることで、分散型の地域経済をつくる活動を活性化していきたいと考えています。